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青年期の若者の葛藤とデカルト

福本優香 (作成日2010.7.19 修正日2010.8.10

 

 

はじめに

デカルトの結論を先延ばしにして見つけだした「わたしは考える、ゆえに私は存在する」は青年期におけるさまざまな葛藤へのひとつの解答であると考える。

まず、ここでは若者の抱く青年期における葛藤をとりあげる。それは以前まで吟味することなく信じていた常識への揺らぎを多分に含んでいる。

次にそこからあらわれる若者の行動様式を一つの葛藤に対する根拠としてあげたい。

最後にデカルトの思想を紹介し、その根底にあるデカルトの精神を探り、結論部に繋げた。

 

 

若者とデカルト

a. 若者の抱える問題とは

青年期に入り、若者は親からの独立を目指すようになる。それまで、若者は精神的、経済的に親に依存した状態であった。青年期において、若者は親に反抗し、自分を認めてもらおうとする。そのときが自我へのめざめだと言えるであろう。

例えば親に「勉強しなさい」と言われると、彼らの中でふいに「何のために勉強しているのか」といったような疑問が沸き起こることがある。最初は親への反発の意識から生じたものかもしれないが、ささいなものであった疑問が膨らみ、ついに自分では対処しきれないほど大きくなったときに子どもは親へ反抗する。

「何のために勉強しているのかわからない」。昨今、よく聞かれる言葉であろう。一度、「何のため」という疑問を持ってしまうと、次は「何のために生きているのか。自分とはいったい何者だ」といったような疑問も同時に顕われる。それまで、疑いすら持たず、親の言う通りに従順に生き、またひたすら成績だけを求めて勉強していた若者への一つの大きな転機である。

あるいは善悪の判断の揺らぎの事態も生じうる。何が悪で何が善なのか、もはや単純に言い切ることは出来なくなる。それは、自分が善かれと思ってした行動でも他人にはそうは思われず、非難されるということも往々にしてあるからである。例としてあげるなら、電車の優先席である。自分は優先席に座っているが目の前にやや年輩の女性がいる。果たして、席を譲るべきか考える。社会では譲るように教える。しかし、自分の頭の中にもう一つ考えが生まれる。「もし、席を譲ったら相手の女性を年寄り扱いすることにはならないだろうか。相手の女性は傷付かないだろうか」あるいは「譲っても逆に相手に気を使わせて迷惑がられたりしないだろうか」こんなところである。社会の単純な善悪の概念では対応しきれない。そしてこの考えを大人に話しても、席を譲るのが億劫なことに対する自己弁護のように言われるし、実際、自分でも本当に相手を気遣って譲らなかったと胸を張って言うことには気が引ける。自分の判断は本当に相手を思いやった結果の判断なのか、あるいは、周囲の大人が言うように席を譲りたくなかったからなのかもわからず、自分の判断が正当性について迷うことも少なくないだろう。

また、「他人に優しくし、尽力して生きていくことは果たして自分の望む人生なのか?」という疑問も生じうる。人は誰か他の人のために尽力して生きていくべきなのだろうか。困ってる人がいたら自分を顧みないで助けなさいというのは幼少期からの社会の教えであるが、その教えに対して疑問を持つようになるということである。以前まではその教えに疑問を持つこともなく、単純に善悪を判断してきた。無茶をする我が子を心配する親がたまに自分のことも考えなさいとたしなめる程度である。それはわが子への愛ゆえの心配として語られるのがほとんどで、他人に尽力することを否定するものでは決してない。たとえそれが刃物など危険物を所持している可能性の高い強盗に対しての行動で自らの身を危険にさらしていたとしても、「強盗を捕まえたお手柄高校生」といったように、社会は基本的に若者の人助けを褒めたたえる。そして、その人助けの教えに対する批判を堂々と述べることは、自分が自己中心的な人間であるように感じられてはばかられることである。周囲からも非難されかねない。結局、問題は何のために生きるのか、あるいは誰のために生きるのかということに帰結するように思える。すなわち、なにを、あるいは誰を優先にして生きていくのかという問題である。

ここまでで述べた若者の抱える問題とは「何のため」「自分とは何か」「善悪の概念」であり、いずれも価値の揺らぎである。

 

b. 若者の特徴的行動様式

今や年輩の世代にも広がった言葉であるが若者言葉に「KY」という言葉がある。それは「空気が読めない」といった意味であるが、若者の特徴として、空気を読むということが一つあげられる。(注1)空気を読むだけならば、社会のなかでコミュニケーションのための必要な能力として若者に限らないが、若者に特徴的な行動様式の一つとして、空気を読むことに加えてキャラの使い分けがある。あるいは意図的に自分の望むキャラクターを作り上げることもある。場面場面に応じて、その場にふさわしい人物像を作り、それに基づいた行動をする。それは「ウザキャラ」「キモキャラ」はたまた「お嬢さまキャラ」などさまざま存在するようだ。(注2)

そのキャラの使い分けの背景として、増え過ぎた知り合いというのがあげられる。その知り合いの親密度の度合いもさまざまである。そのため、一つのキャラクターで一括に対応するより、その場のノリ(雰囲気)や相手の性格に合わせた方がコミュニケーションが円滑にいくのではないだろうか。(注3)

知り合いが増える理由としては、携帯電話やSNSがあるだろう。SNSや携帯電話の電話帳に登録されれば、相手のアドレス等が変わったり、相手がSNSを利用しなくなって連絡することができなくならない限り、形式的にでも相手の情報(顔や性格、場合によっては本名)が記憶の中で曖昧になっていたとしても、あるいは知らなかったとしても知り合いとしては残り続ける。(注4)

これらの行動様式において最も特徴的なのは確固たる人格が存在しないことだ。利便性からキャラの使い分けをしている考えることはできるものの、その根本的な背景は「いったい自分とは何者だ」という問いに対して答えを得られていないからではないか。

 

1…『近頃の若者はなぜダメなのか』原田曜平 p.26~28

2…『近頃の若者はなぜダメなのか』原田曜平 P.29~47

3…『近頃の若者はなぜダメなのか』原田曜平 P.64~71

4…『近頃の若者はなぜダメなのか』原田曜平 P.76~84

 

 

 c. デカルトの思想とは

 デカルトは真理探究を第一の目的として、そのために精神的平穏を求めた。このことがデカルトの根底には存在している。

デカルトはまず、真理探究のためには少しでも疑いうる事柄については一度自分の精神から取り除いた。そして自分が未熟で誤りやすい人間であることを承知し、物事を判断しないようにした。速断と偏見は最も恐れるべきものだからである。後になって、ほかのもっとよい見解を改めて取り入れることができるようにするためである。だから前例や慣習も信用すべきでない。(注5)

しかし、デカルトは言う。「国の法律や慣習には従う」(注6)これは明らかに矛盾であるように思える。国の法律や慣習は時代時代の権力や人々の行動様式の積み重ねによって作られたものであるから、理性的根拠に欠いているというのは容易に考えられる。だとしたら、それらは自分から排除すべきであるというのがデカルトの論理のはずである。しかし、最初に言ったように、デカルトが何より重視したのは精神的平穏なのである。国の法律や慣習に疑いうるものとして自分の考えから排除し、従わないでいるのは国の権力者からの罰や周囲の人間からの批判が起こる。それらはデカルトの真理探究を著しく妨げる要因になってしまう。だから、デカルトは疑わしい論理は取り除くと言いながらも国に従うのである。また国の法律や慣習に従わない場合、それなりの理由が当然求められる。しかしその論理すらデカルトの理性が未熟である以上、構築することはできないし、恐れるべき速断に繋がりかねないのである。

次に感覚についてである。感覚はあてにならない。なぜなら、感覚で知覚したものは実物と異なることがあるからである。例をあげれば、水平線。視覚という感覚を用いて、判断した場合水平線はまっすぐである。だからといって地球の淵がそこにあるわけではない。ただ水平線を見ているだけでは地球が板状ではなく球体であることがわからない。このように感覚は時にあてにできない。そして、一度でもあてにならないことがあったのなら、他でも感覚によって錯覚している可能性は大いにありうる。だからデカルトは感覚も判断基準から排除した。(注7)

そのようにして、すべてを偽として考えていく。結果、ほとんどすべてのことが一時的に偽として判断されるだろう。なぜなら絶対的真理というものがまだ見つけられないでいるからである。しかし、ひとつ疑いえないものがあるとデカルトは考える。それが考えている自分である。ほとんどすべてのことを疑っても疑っている自分が存在していることを否定することはできない。よって「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という第一原理が発見された。(注8)

最後にデカルトの哲学者としての姿勢についての補足である。デカルトが真理を探究することを第一の目的と考え、そのために精神的平穏を求めたというのは先ほども上記したが、それに由来すると考えられる驚くべき行動がある。まず、デカルトは「力の及ぶかかぎり万人の一般幸福」を図ることに対して肯定的である。また、「人生の短さと実験の不足」といった2つの障害に対して、「自分の発見したことがどんなにささやかでも、すべてを忠実に公衆に伝え、すぐれた精神の持ち主がさらに先に進むように促」し、「われわれ全体で、各人が別々になしうるよりもはるかに遠くまで進むことができるようにするのである」とも述べている。(注9)しかし、デカルトは「学者たちといざこざを起こしたくない」と述べたし、生存中において論文は秘匿すると言う。その理由が反駁や論争を免れないということが予想できるからなのだ。(注10)これは研究者として実に消極的な態度であるし、なにより先ほどの進歩を願う言葉に矛盾している。しかし、デカルトの中の優先順位を考えたとき、疑問は氷解するであろう。デカルトはまず何よりも真理探究とそれに伴う平穏を求めたからそれを妨げる要素を排除したがったのである。論文公表による反論やまた名声でさえも、「自分を導くために使おうと」している時間を失うきっかけに相当すると考え、このような一見、矛盾とも見える論を述べたのである。

 

5…『方法序説』デカルト p.18~33

6…『方法序説』デカルト p.34

7…『方法序説』デカルト p.45

8…『方法序説』デカルト p.46~47

9…『方法序説』デカルト p.82~84

10…『方法序説』デカルト p.87

 

 

結論

若者が抱える価値基準の揺らぎという問題に対して、デカルト的な見地からの解答をあげる。

はじめに「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」である。どうあっても、悩んでいる自分を否定することはできない。絶対に自分はここに存在しているということ。それは一種の安心感を与える。

次に「何のために」や「自分の正体」で悩む若者であるが、それは今急いで決めずともよいことである。とりあえず保留という形にして速断を避ける。速断は誤りの元とあり、若者はとかく解答の速さを求めがちである。ゆっくりと構えることなく思案すれば、それほどの苦痛にはならないのではないか。ただ、言ってしまえば「悩む自分」を差し置いた「自分の正体」あるいは「本当の自分」など存在しない。存在として肯定できるのは悩んでいるがゆえに存在証明を持つ「悩んでいる自分」だけであるから、それが「自分の正体」そのものである。

最後に「善悪の概念についての揺らぎ」であるが、それこそ、デカルトの歓迎するものである。幼少時から教え込まれた自分の中で論理的根拠を持たず、吸収してしまった事柄に疑問を持つことは、次にもっとよい考えを得るための機会である。ただし、こちらも速断を避けるべきなのは言うまでもないことである。

 

文字数:4967

 

参考文献

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上野千鶴子 『脱アイデンティティ』 勁草書房 2005年発行

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栗原彬 『やさしさのゆくえ=現代青年論』 筑摩書房 1981年発行

児美川孝一郎 『若者とアイデンティティ』 法政大学出版局 1963年発行

齋藤慶典 『デカルト「われ思う」のは誰か』 NHK出版 2003年発行

J・コールマン 訳白井利明 『青年期の本質』 ミネルヴァ書房 2003年発行

白井利明 『大人へのなりかた』 新日本出版社 2003年発行

デカルト 訳谷川多佳子 『方法序説』 岩波文庫 1997年発行

デカルト 訳谷川多佳子 『情念論』 岩波文庫2008年発行

デカルト 訳谷川多佳子 『哲学原理』 岩波文庫 1964年発行

デカルト 訳三木清 『省察』 岩波書店 昭和24年発行

寺川修司 『寺川修司から高校生へ 時速100キロの人生相談』 学研 1994年発行

浜田寿美男 『子ども学序説』 岩波書店 2009年発行

原田曜平 『近頃の若者はなぜダメなのか』 光文社新書 2010年発行

正岡寛司 島崎尚子 『近代社会と人生経験』 日本放送大学出版協会 1999年発行

山口信夫 『疎まれし者デカルト』 世界思想社 2004年発行

吉田裕 平井久 長島正 『現代青年の意識と行動』 誠信書店 1979年発行

鷲田小彌太 『若者論 次世代の実力をさぐる』 学研 1993年発行